栗園のバトン

2024年、珠洲の栗園を3代目として引き継いだ。地震と豪雨で園は孤立し、農薬も肥料も撒けない。他の農家から見れば「とんでもないやつ」だろう。それでも私は、誰とも同じではない栗を、この能登の地で育て続ける。

私はこの能登の地で、誰とも同じではない、たったひとつの栗を育てている。2024年、能登半島・珠洲市にある栗園を3代目として引き継いだ。もともと地域の人々が大切に育て、信頼する知人が管理を引き継いでいた園だ。奥能登地震で多くの人が被災し、栗園の管理も難しくなった。そんな折、私がバトンを受け取った。会社を辞め、土地と前管理者の機械一式にもお金を払い、農業に専念しようとした。家庭菜園のキュウリやナスすらうまく育てられなかった人間が、栗の園を持った。

引き継いだ倉庫には冷蔵庫や散布機といった慣行栽培の道具が並んでいた。農薬散布機のホースの前を通ると、言葉にしにくい匂いが機械全体から漂い、近くにはタイベックの防護服が置いてあった。機材を運ぶ作業のなかで例のホースに手が触れると、私の手は異常なほど敏感に反応した。幼少期からアトピー性皮膚炎を患い、沖縄で海に入る暮らしを続けて20代半ばに症状が消えた身でも、あの恐怖は頭から消えていない。農薬ホースへの反応は記憶を呼び覚ますような恐ろしさで、私は自然とそのホースから離れるようにしていた。高い理想で無農薬を選んだわけではない。身体が、先に「ノー」と言った。

孤立した栗園

同年9月の豪雨が私を襲った。栗園に通じる農道が寸断され、園は文字通り孤立した。私自身も被災者で、穴だらけの家にブルーシートを張り、混乱の中で家族を守る日々。行きたくても行けない。肥料を撒くことも、草刈りも、剪定も、何より収穫もできない。目の前でたわわに実った栗が地面に落ち、虫や獣に食われ、腐っていくのを見ているしかなかった。腐った果実の掃除すらできず、無力な時間だけが過ぎた。「何もしない」とは来季の準備もできないということだ。被災地で知ったのは、公助が行き届かない現実と、農業がどれほど機械やインフラに頼っていたかという脆弱性だった。

山間部の農園は、一度被害に遭えば、いつまた同じことが起きるか分からない。ようやく入れるようになっても、「このまま従来の方法で続けて良いのか」と自問した。それでも私は座して待てなかった。土砂を乗り越え、運べる道具を背負い、何度も農園までの道を往復した。普段数分の道のりが、荷物を運ぶだけで何十倍もの時間を要した。しかし機械が入れない以上、一人でできることには限界があった。「このままでは貴重な2年を無駄にする」。焦りと無力感だけが募った。

ミツバチが示した場所

日本笑顔プロジェクトを通じて土砂撤去が終わり、ようやく園内に車が入れたある日、たくさんのニホンミツバチが春先からせわしなく飛び交っていた。「もしかして、農薬を撒けなかったこの状況が、蜂にとって過ごしやすい環境になったのでは」。その年の出来栄えは分からなくても、受粉については心配どころか豊作が期待できると感じた。蜂たちの姿を見たとき、私の心は確信に近づいた。機械や化学資材に頼りきりの営農を、このまま続けてはいけない。虫や土、森に優しい果樹園を作り、肥料や農薬に頼らず自然の力を利用した栗を作る。できるだけ機械に頼らず、自然と人が共存する農家でありたい。災害で農薬を撒けなかった事実、身体が拒否した事実、そのうえで蜂が示してくれた方向。これらが重なり、無農薬・無肥料の栗農家として新たな一歩を踏み出すきっかけになった。

今思えば、この職業は初めから背水の陣だった。農家でありながら農薬が使えないゆえ、慣行栽培には戻れない。このことが分かっていたら、農家の道は選ばなかったかもしれない。幸いながら無知で無学な私は勢いで飛び込んだ世界で、自分にしかできない道を選ぶことになった。新規就農をサポートしてくれる人たちは、無農薬栽培に変な顔をし、賛同してくれなかった。「万が一、栽培ができなくなったら慣行栽培に戻れるよう、就農計画をもう一つ作りましょう」と幾人も言った。私は嫌々ながら資料を作ることには賛同している。書類上の予備線として必要なのは理解している。だがはっきり言って、そこには戻らないし戻れない。

他の農家から見れば、私は「とんでもないやつ」だろう。栗に肥料も農薬も与えていないからだ。栗はとにかく虫に好かれ、7月から9月にかけて実が大きくなるほど、虫にとっては食べ放題になる。他の農家はこの時期、決まった農薬を撒き、系統流通に乗せるための品質と供給を守る。それが共通のルールだ。だが私は「ノー」だ。誰かのマニュアルに従い、誰とも同じ栗を作る道は、私の求めるものでなければできるものでもない。

農薬も肥料も使わないと、当然、虫との死闘が始まる。「絶対無理だ、非効率だし無意味だ」と言われる。収穫が近づくと、周りの農家や専門家が「防除をしろ」と忠告に来る。「大丈夫。私は、虫との戦いを、栗と一緒に楽しんでいる」。そう言うと、彼らは首を傾げながら去っていく。私は虫を完全に駆逐しようとは思わない。毎日栗の木とにらめっこしながら、知恵と汗で数を減らす。面白いことに、一本の木でも虫がつく実とつかない実があり、全く虫のつかない木もある。すべての実が食われる木はない。なぜか、私自身にもまだ分からない。その謎が、探究心に火をつける。

こうして出来上がった栗は、系統流通の規格には収まらない。前管理者の生産量と比べれば圧倒的に落ちる。だがそれが、私の栗だ。この世にたったひとつしかない、能登の自然と私のこだわりが生み出した作品だ。自分で作ったものを、自分の責任で売る。多くの農家が「作る」ことは得意でも「売る」ことで壁にぶつかり、安心のレールに戻っていく。私は、どんな人に、どんな言葉で届けたいかも、表現の一部だと思っている。少し高く、不揃いかもしれない。それは、この栗に込めた時間と情熱、能登の自然そのものの価値だ。スーパーの画一的な栗とは違う。私という人間と、能登という土地が全身全霊で作り上げた、一つの物語だ。

無農薬は美徳のラベルではなく、恐怖と制約と災害と、初心者ゆえの空白から始まった営農だ。戻る道を残した就農計画が机の引き出しに眠っていても、畑に向かう足は一本道を選び続ける。この栗を口にした人が、ほんの少しでも能登を感じ、私の情熱を感じてくれたら、それでいい。これからもこの能登の土地で、たったひとつの栗を作り続ける。安心して、心から美味しいと思えるものを、より効率的に、たくさん作れるよう。