山での仕事は、自然との対話だ。朝靄が晴れると同時に始まる作業は、泥と汗と、そして時に鬱陶しい羽音との戦いでもある。夏の盛りを過ぎ、秋の気配が濃くなる十月前半、そろそろその必要もなくなるかと思いきや、山を甘く見てはいけない。
森の奥深く、日陰の湿った場所には、最後の力を振り絞るかのように、やたらと元気のいい「奴ら」が待ち構えている。そう、憎き蚊だ。
私達の山の仕事において、「蚊取り線香」はもはや夏の風物詩などという呑気なものではなく、「必需品」と呼ぶべき立派な「道具」なのである。
都会の人たちはどうなのだろう。新宿や渋谷の、あのガラスとコンクリートのジャングルで、蚊取り線香の独特なあの匂いを嗅いだ記憶がない。あれだけ人がひしめき合っているのに、自然が少ないと蚊も寄り付かないのだろうか。
そういえば、都会の真ん中で「ぷ~ん」という羽音を聞いた記憶もない。唯一刺された記憶があるのは、町田の噴水広場の石のベンチで、飲みすぎて朝まで寝落ちしてしまった時くらいだ。
目が覚めたら、腕も足も赤く腫れ上がり、とんでもないことになっていた。あれは悲惨だった。やはり、自然の片鱗でも残るところには奴らはいるのだ。
儀式としての「着火」
私達が山に入り、仕事を始める前に必ず行うことがある。それは、何を差し置いてもまず蚊取り線香に火をつけることだ。
火をつける前には、もちろん儀式がある。詠唱だ。
「今は遠き森の空・・・無窮の夜天に鏤(ちりば)む無限の星々よ・・・」
なんて、大仰な呪文を唱えたりして、横にいる仲間に「こいつ!詠い慣れている!」「2重詠唱!?」などと言われたら気分は最高だ。そんなくだらないやり取りをしているうちに、線香の渦巻きの先端に炎が灯り、やがてそれは赤くチロチロとくすぶり始める。
ゆらり、と細く立ち上るあの白い煙。あたりに漂い始める、あの独特の、鼻の奥を刺激する匂い。これは私達にとっては、まさに「デバフ効果」の発動の合図なのだ。
徐々に、確実に、奴らはその匂いを嫌がり、作業範囲から遠ざかっていく。そして、火をつけた線香を、今回紹介するこの「ケース」に入れ、腰のベルトやポケットに引っ掛ける。これで準備完了だ。身体から少し離れたところで、絶えず「結界」が張られている状態になる。こうしてようやく、快適に作業に取り掛かれるというわけだ。
蚊取り線香ケースの「哲学」

蚊取り線香自体は、よく見る緑色のやつや、やたらぶっとい業務用みたいなやつなど、種類は色々ある。どれもちゃんと効果はあるから、ぶっちゃけ好みで良い。問題は、それを「どう持ち運ぶか」「どう使うか」だ。
今回、私が声を大にしておすすめしたいのが、写真の黒と黄色の円盤。これはただのケースではない。「道具としての哲学」が詰まった、農家の相棒だ。
このケースの優れた点は、なんといっても「窒息消火機能」にある。
作業の途中で急な雨に見舞われたり、予定より早く切り上げなければならなかったり、あるいは単に線香一本が燃え尽きる前に休憩に入りたいこともある。そんな時、燃えている途中の蚊取り線香の火をどうやって消すか。
これまでは、先端の数センチを「ぽきっと折って」消すしかなかった。火のついた先端は、地面に落として靴でグリグリ踏みつければ、すぐに火は消える。でも、この「折る」という行為が、どうにも気に入らなかったのだ。
確かにほんの少しだ。数センチの渦巻き部分。しかし、「まだ使える部分を無駄に捨てる」という感覚が、貧乏性な私にはどうにも引っかかる。水で消せば、線香は湿ってしまい、次に使う時に火がつきにくい。渦巻の形状だから、地面にこすりつけて消すのも難しい。毎回毎回、僅かながらも嫌な思いをしていた。
黄色い円盤の合理性

しかし、この黄色い円盤は凄い。まさに「道具の進化」を感じさせる。
このケースは、上部の黄色い蓋を「カチリ」と回すことができる。回すと、外周のいくつも開いている**「空気孔」がピタリと閉じる**のだ。
空気の供給が絶たれる。それだけで、燃え盛っていた火は、あっという間に窒息消火する。無駄なく、水で濡らすこともなく、先端を折ることもなく、完璧に消火が完了するのだ。
「少しの無駄もなく消火出来る優れモノ」。
この合理的で、潔い機能に、私は心底惚れ込んだ。これで、線香の最後の一巻きまで、文字通り「余すことなく」使い切ることができる。道具に対する敬意と、資源を大切にする心が満たされる瞬間だ。
さらに、別の小さなストレスからも解放してくれる。
従来の安価なケースには、線香の底面とケースの底面との接地面が多すぎて、熱がこもりやすかったり、湿気や灰のせいで、いつの間にか線香が途中で消えてしまう、というトラブルが結構あった。せっかく儀式までして火をつけたのに、気がついたら煙が上がっていない、なんてのは、山でのデバフ効果が無効化されることを意味するのだ。

しかし、このケースは構造が優れているのだろう。線香が浮かび上がるようにセットされ、適度な空間と通気性が確保されているためか、途中で火が消えるということが、まずない。最後までしっかりと、あの忌避剤の煙を燻らせ続けてくれるのだ。
道具は、働く者の魂を映す
私達の仕事は、都会のそれと違って、効率や合理性だけでは成り立たない。そこには、自然に対する敬意と、道具に対する愛情が不可欠だ。
この黒と黄色の円盤。シンプルなデザインの中に、働く者の「無駄を嫌う心」と「確実に仕事を完遂させたいという願い」が、見事に具現化されている。
山で働く人々に、心からおすすめしたい。この道具は、単に蚊から身を守るだけでなく、私達の作業を支える、頼もしい「守り神」なのだから。

