秋です。まったく良い季節であります。空は青くて、風は気持ちがいい。ただ、私のような栗農家にとって、この季節の到来は戦争の始まりを意味するのです。
栗拾い、なんて聞くと、多くの人はマロンチックなイメージを持つかもしれません。しかし、現実は違います。あれは、トゲトゲの防御壁に守られた黄金の宝物を、いかに効率よく、いかに早く手に入れるかという、大自然との知恵比べなのであります。この戦い、なんと40日間も続くので、これはもう『栗の40日間戦争』と呼ぶにふさわしい。
この戦争には、時期によって戦術と装備をガラリと変える必要がある。
最初は平和な紳士の散歩。しかし、ひとたび物量が増えれば、私は獲物を追う獣へと変わる。この過酷な40日間を通してこそ、本物の「知恵」と「技術」が生まれてくる。
初期の「二刀流カゴ」
さて、戦争の初期。この時期の栗畑は、まだ平穏そのもので、心に余裕がある。一日で落ちる栗の絶対数が少ないから作業も優雅なのです。
私のスタイルは、同じサイズのカゴをつ引きずって歩く二刀流スタイル。イガを見つけたら、「やあ、君も落ちたか」なんて心でつぶやきながら、その場で実を取り出す。片方のカゴには実を、もう一方にはイガを、と分けていく。さながら左手に栗、右手にいがと言った所か。
拾うのと、選別と、イガの処分を同時にこなす。これは、数が少ないからこそできる、贅沢な時間の使い方であります。初物の「極上マロン」を手にすると、良質な実りに感謝し、「今年もちゃんと良いモノができた」と、農家としての安堵感がジワリと広がる。
この時期の私は、まさに栗畑の紳士なのであります。しかし、この平和は長く続かない。日を追うごとに栗はボトボトと落ち始め、優雅な二刀流スタイルでは、全く作業が進まなくなる。そう、あの地獄の繁忙期が、静かに、しかし確実に、足音を立ててやってくる。
戦略転換!「一点集中」と狂気のスピード
物量が爆発的に増加したら、戦術は大転換なのであります。優雅な紳士はもう終わり。ここからは、「ひたすら拾って、一カ所に集める」という、極めてストイックなスタイルへと切り替わる。
農園にはメインの道から枝分かれした数本の小道がある。この小道一本一本を、まるでトゲトゲ畑の耐久マラソンのように、小走りのスピードで往復する。とにかく栗だけを拾い集める。選別? 後でいい。イガの処分? それも後でいい。
なぜ、こんなに急ぐのか? それは、我々農家が持つ、どうしようもない「性(さが)」なのです。目の前で「ぼとっ」と落ちた栗を、諦めることができない。これに気を取られ、その場で立ち尽くしてしまうと作業が完全に停止してしまう。特に風の強い日や雨の日は最悪で、落ちる栗に心を奪われ、一歩も進めなくなることがあるのです。
だから、「後ろを振り返るな!」なのです。とにかく前へ前へ。一旦きれいに拾い終えた場所で、後から落ちた奴は「明日ひろおう」という、一種の達観の境地に至る。これが、「栗拾いの時短テクニック」の真髄であります。一カ所に留まる時間を短くする、ただそれだけ。この一点集中・栗掃討作戦に徹すれば、収穫スピードは段違いに上がる。
自己とのデッドヒート
数カ所に集められた栗の山。その山を前にしていよいよ選別という名の修行が始まる。
収穫コンテナとイガを捨てる巨大なフレコンバッグ、そしてお茶と椅子を用意し、その栗の山の前に座す。そしてひたすら選別。繁忙期には一カ所で三時間ぶっ通しで、ただひたすら栗と向き合う。これはもう、マロン禅問答なのです。
この時期の私はまさに「栗拾いマシーン」です。一日十五時間、栗と対峙している。朝五時から拾い、選果場で栗の洗浄と低温保管。そして昼過ぎに畑に戻り、夜まで拾う。このサイクルが40日間続くのです。
もう、正直泣きたくなる。だから、この時期の私の頭の中の暦は通常のカレンダーではありません。常に「カウントダウン方式」。「後三九日」「後二〇日」…と、日数を数えることで何とか気力を保っている。これに加工、発送、営業、家のことが加わるのだから、この時期をどう過ごしたのか、記憶が曖昧になるのも無理はない。
しかしですよ、実は私は極限まで自分を追い込むようにしている。これには、大きな理由がある。
余裕がある時よりも、追い込まれた状況の方が、人間は知恵を絞り出すのです。「もっと早く、もっと楽に作業するにはどうすればいい?」という真剣な問いが生まれてくる。アルバイトに頼むとしたら、「手順書はこうやってマニュアル化した方が分かり易いな」という具体的な改善策も、その狂気の中から生まれてくる。安易に人手で解決するのではなく、作業そのものを見直すには追い込みも必要なのです。
そして、何より毎日何時間も栗と向き合うことが、最も知識を深め、品質を判断する目を養うことに繋がる。高齢の農家さんの中には、現場に出ない人もいる。体力の問題もあるでしょう。しかし、やはり一通り自分で汗をかき、泥を舐めなければ、畑の細かな問題点や、栗の品質の良し悪しを瞬時に判断することはできない。探求にゴールなどない、あってはならないのです。我々は農家であり知を追求する哲学者なのです。
とは言え、この時期は本当に栗が嫌になるほど忙しい。拾っても拾っても落ちてくる栗が憎たらしい。
さあ、次の栗の山が私を待っている。マロンチストな私はカゴを抱えて、今日もまた、トゲトゲ畑の耐久マラソンを走り切る。そういうことです。



