自然農法の赤字論

先日、能登の畑で先輩農家のお父さんと話をしていた。

 

もう年を取って、何も作らなくなったというのに、トラクターで畑を耕している。そばにいたお母さんは「油代を払って何をしているの」と呆れていた。それも無理はない。収穫も出荷もない土地に、機械を入れている。帳簿のどこにも載らない支出だ。

 

でも、私にはその気持ちがわかる。

 

放棄した土地は、あっという間に雑草だらけになる。トラクターが入れなくなって、手がつけられなくなる。この負のサイクルは、農家なら誰もが知っている。お父さんは、そうならないように地面を整え続けている。「土地だから」とだけ答えた。言葉は少ないけれど、農家にとって地面を整える気持ちは、説明しなくても通じる。

 

そんなお父さんが、かつていた移住者の話をしてくれた。

 

彼は「自然農法」という名目のもと、草刈りもせず、肥料も与えず、地面に種をパラパラと蒔いて、出てきたものを雑草と見分けながら収穫するスタイルだった。安定供給はできない。商品化もできない。販路を開拓する余地もない。家で食べる分だけ。それだけの農業だ。

 

お父さんが観光栽培で作っている野菜を彼に渡すと、こう言ったという。「やはり、こちらの方が大きくて美味しそうですね」

 

手を入れた作物と、入れなかった作物の差は、誰の目にも明らかだ。

 

ところが、酒を酌み交わしながら農業の話をしたとき、話は奇妙な方向へ進んだ。

 

自然農法の彼は赤字だった。だが、お父さんの慣行栽培も、赤字だった。

 

同じ赤字なら、どっちが「いい」のか。

 

彼は言った。「全然働かないし、機械の投資もしていない。同じ赤字なら、僕の方がいいですよ」

 

お父さんは、こう返したという。「こんなに頑張って赤字な俺と、何もしないで赤字のお前。言われてみれば、確かに、そうかもしれねえな」

 

自然農法における赤字論。お父さんは、とても納得してしまったらしい。

  

私は第三者として、そして無農薬で営農する農家として、こう思う。赤字では、農業は続かない。手を抜いた赤字も、汗をかいた赤字も、帳簿が赤なら事業ではない。残念ながら。

 

でも、まぁ、この二人のやり取りは面白かった。