土の記憶を、ひと粒に
能登の最北端、その厳しい風土のなかで、私たちは「無農薬・無肥料」という道を選びました。 それは単なる手法の選択ではなく、栗が本来持っている生命力を信じ、引き出すための決意です。 効率を優先すれば、手放せる苦労はたくさんあります。 しかし、私たちはあえて、その苦労のなかにある「本物の価値」を追求しています。
共生の結果として、残るもの。
豊かな大地で育つ栗には、多くの生き物たちが集まります。 本来、虫たちもまた自然の一部であり、栗を育む循環のなかに存在しています。 しかし、効率よく、かつ大量に収穫することを目指すとき、人はそれらを「害虫」と呼び、農薬で一掃する道を選びます。
私たちは、その薬剤による強制的な解決を選びません。 農薬を使わなければ、当然ながら虫たちの活動は盛んになり、私たちが収穫できる健全な栗の数は減少します。
お届けできるのは、厳しい自然のなかで生き抜いた「選ばれしひと粒」です。そこには、能登の土壌が育んだ野性味あふれる風味と、私たちが注いできたすべての時間、そして不自然なものに一切頼らず、土と樹の生命力だけで結実したという揺るぎない安心が宿っています。
暮らしと、栗と、巡る命。
能登で生きる農家として、私にとって農業は単なる仕事ではなく、生活そのものです。 栗の木と向き合う日々の作業は、一見すると生産のための合理的なプロセスに見えるかもしれません。しかしその一画一画には、その先の暮らしを見据えた大切な目的が宿っています。
剪定した枝はチップとなり、燻製の香りを生み出し、冬には木の根を守る温かな保温材や、土を育む改良剤へと姿を変えます。青々と茂る栗の葉は土作りの材料となり、時には染物として新たな色を纏います。
大きく育った幹や枝は木工品へと生まれ変わり、私の手を離れ、今度は誰かの人生のなかで、新たな役割を果たす道具となります。 その制作過程で出た端材まで、余すことなく乾燥させ、厳しい冬の家を温める薪ストーブの燃料となります。
それは、木々だけではありません。 時として畑を荒らす猪もまた、この山の一部です。一般的には「害獣」として遠ざけられる存在ですが、当園の栗を食べて育った猪は、私にとっては冬を越すための大切な食糧であり、生活に欠かせない命の恵みでもあります。
栗の生産だけに目を向ければ、これらはすべて「処分の対象」かもしれません。しかし、そこにあるものすべてに役割を与え、活用する術を考えること。その一つひとつの営みが、私の人生を形作る重要な要素となっています。
生産者としての「消費者のため」という外向きの理由だけでなく、自分自身の暮らしがその山と共にある。 この循環のなかで、自らも生かされているという実感が、奥能登農園の根底に流れています。